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石破政調会長に提言、緊急災害対策本部に出席

2011年3月29日 火曜日

本日(3/29)は、今回福島県の被災地支援活動に参加した奪還の会メンバー有志で石破茂政調会長を訪ね、現地の状況を報告するとともに、緊急申し入れを行いました。

申し入れの主な内容は以下の通りです。

1.原発被害について
 ・政府の情報発表の際には、まず関係自治体への連絡を優先するとともに、数値の意味と対処方法を合わせて伝えること
 ・被災地で随時計測が行える体制を整備すること
 ・物資が届かないことを理由とする無責任な自主避難指示は直ちにやめること
 ・農作物の播種時期に間に合うよう、対処方針を明確にすること
 ・国の責任と補償を明確にすること

2.風評被害について
 ・風評被害抑制に努めること
 ・空気・水・土壌汚染の基準を見直し、対処方法を明確にすること
 ・風評被害に対する国の責任と補償の範囲を明確にすること

3.災害復興について
 ・捜索活動や復旧などについて民間パワーを最大限に活用すること
 ・ガソリン・灯油・プロパンなどのエネルギー供給を確保すること
 ・県と市町村、避難所の連絡体制を構築すること
 ・屋内退避者に対する物資の供給


(左から山際大志郎、私、秋元司、石破茂政調会長、松本文明、牧原秀樹、大西英男)


(メンバーそれぞれが申し入れ書の内容を説明。政調会長にしっかりと受け止めていただきました。)

 

引き続き、党本部9階で開催された「東日本巨大地震・津波緊急災害対策本部」の会議に出席しました。

現地でお会いした谷垣総裁からは、山形、宮城、福島の各地の状況などについてご報告がありました。

意見交換の時間には、奪還の会を代表して松本文明先生から、
「我々が30km圏内の南相馬市を中心に4日間屋外で活動して浴びた放射線量は35マイクロシーベルトに過ぎない。日本ニューヨーク往復であびる200マイクロシーベルトに比べても少ない。むしろ30km圏外の福島市のほうが値が大きい。しかしその実態が理解されず、南相馬市では、ガソリンも物資も届かない状況。物資を届けるのは政治の責任であり、物資が届かないから自主避難せよという政府の対応はすぐにやめさせるべきだ。」との発言を行いました。

被災地では、これからも長く厳しい戦いが続きます。政治も、常に、被災地のことを忘れず、支援していくことが必要です。


(多くの議員が出席し、真剣な検討が行われました。)

奪還の会で福島県の被災地で支援活動(4日目)

2011年3月28日 月曜日

本日(3/28)は、福島県内で被害を受けた他の地域を訪問しました。

はじめに、県内で震度6強と、もっとも強い地震があった国見町を訪ねました。

国見町では、町役場の地盤が傾き、業務ができなくなったため、観月台文化センターという施設の大ホールに役場機能を移して、被災者の支援活動を行っていました。


(ホールが臨時役場になっていました。一部のパソコンも被害を受け、新たに購入したそうです。)

ボランティアで活動している女性の皆さま方からもお話を伺うことができました。皆さん、朝6時半から朝食の用意をはじめ、10時のお茶の時間、昼食、午後3時のおやつ、夕食のお世話をして。6時過ぎまで働くそうです。


(おいしい甘酒、うめぼし、大学芋などをごちそうになりました。ありがとうございました。)

副町長さんからは、
「国見町では全壊が49戸、半壊が29戸、一部損壊が約1000戸という状況で、仮設住宅に130戸の申し込みがあり、現在43戸を建設中。」
「現在の制度では、仮設住宅に入れるのは全壊の被害を受けた方のみだが、2世帯住宅の1部が壊れ、若い世帯だけが避難している例などもあり、半壊でも入居できるよう、基準の緩和が必要。」
など、貴重なお話を伺いました。


(中央が国見町の副町長さんです。お話をお聞かせ下さいまして、ありがとうございました。)

 

その後、避難所となっている大木戸ふれあいセンター、伊達市伊達体育館、飯坂温泉観光会館「パルセいいざか」、野田町集会所の4か所で支援物資をお渡ししました。


(「パルセいいざか」では、男性用の保温性の高い肌着や女性の下着が大変喜ばれました。)

 

福岡駅近くで皆で昼食をとった後、亀岡よしたみ先生の事務所で皆様にご挨拶をしてすべてのミッションを終え、一路党本部へと向かいました。


(亀岡事務所の前で関係者一同で記念撮影。皆様、本当にお世話になりました。)

奪還の会で福島県の被災地で支援活動(3日目)

2011年3月27日 日曜日

本日(3/27)も、朝7時に出発して、南相馬市に向かいました。

今日は、行方不明者の捜索活動に、警察や消防団の皆様とともにあたる予定です。

バスの中で地元紙である福島民友新聞をみると、社会面に昨日避難所で実施したパン配布活動の様子の写真が掲載されていました。


(カラーできれいに写っているのを発見してびっくりしました。)
 
今日の捜索場所は南相馬市原町区渋佐地区の河原です。
ここでは、昨日も瓦礫の下からご遺体が発見されたそうです。


(昨日の発見場所の近くの瓦礫を重機で少しずつ崩して捜索していました。)

我々もあちこちに残されている瓦礫の周辺を中心に捜索を行いました。

瓦礫の中に、この近くで飼われていた牛や馬の亡骸を発見し、改めて津波の力のすさまじさを感じました。


(泥だらけで見つかった牛の亡骸です。眠るような顔で横たわっていました。)

 
昼食時には、今日も原町第一小学校の体育館のスペースをお借りしました。

 
午後からは、より海に近いエリアを歩いて捜索しました。


(かつて農地であったと思われる一帯は、泥と瓦礫だけになっていました。むこうにガラスドームのようなものが見えます。)


(近くに行ってみると、頑丈につくられたポンプ施設の建物のまわりに、津波に押し流された鉄骨組みのハウスの残骸が巻きついたものでした。海から2kmの地点まで、ものすごい力で津波が押し寄せたのがわかります。)


(歩いて堤防まで行ってみました。堤防の陸側は大きくえぐられて壊されていました。)


(午後の捜索開始地点に戻ると、谷垣禎一総裁が視察に見えていました。市会議員の中川先生から、捜索の状況などについてお話を頂きました。)

 

今日も、残念ながら、行方不明者を発見することはできませんでした。あらためて、連日捜索活動の大変さを実感しました。

 

その後、我々は、もっとも放射線の値が高いとされている飯舘村に向かいました。

飯館村役場では、まず私たちが自己紹介し、村長や議会議員の皆様からのご意見を伺いました。

村長からは、「原発を早期に廃炉にしてほしい。6000人の村民は一時3000人になったが、約1000人が戻ってきて頑張っている。」とのお話でした。

議員の皆さま方からは、
「これからこの地域が生きていくためにはどうしたらいいかが最大の課題だ。」
「補償がどうなるのかを早く示してほしい。」
「ガソリンやプロパンガスも足りないが、仕事が足りないのが最大の問題。」
「放射性物質による汚染の数値だけを示されても、対応できない。現地で継続してチェックできる体制も作ってほしい。」
「タバコ農家は植え付けの時期を迎えている。土地を耕起しても良いのか、早く結論を出してほしい。」
などのご意見を頂きました。

その後谷垣総裁が到着され、意見交換会が開催されました。


(谷垣総裁からは、「喫緊の課題は福島原発を安定化させること。災害対策には与野党が協力して対処していく。土壌汚染などについて、地元の皆様に十分な情報が伝わるようにしていく。」などの表明がなされました。)

 

今日も、最後に亀岡事務所において、おいしい食事(今日は、メンチカツカレーとサラダでした。)を頂き、一日の活動を終えました。

奪還の会で福島県の被災地で支援活動(2日目)

2011年3月26日 土曜日

本日(3/26)は、、朝7時にバスで出発、南相馬市に向かいました。

福島市内は走っている車は少ないものの、開店前のガソリンスタンドに並ぶ車の列が数百メートル続いているのにびっくりしました。ガソリンを入れるのに2日かかる場合もあるそうです。車に自転車を積んできて夜は自宅や避難所に帰り、また朝早くに戻って並ぶ人もあるとか。被災した上にさらにご苦労をされていることを実感しました。


(延々とつなぐ車の列にびっくり。なぜ2週間もたって被災地にガソリンを届けられないのか、疑問に思います。)

 

バスの中で朝食をすませ、南相馬市役所で今日の捜索場所を打ち合わせて南相馬市原町区に到着しました。

途中に通った介護老人保健施設ヨッシーランドは、海岸線からは約2キロ内陸にありますが、入所者136人のうち30名の方が無くなったそうです。


(ヨッシーランドの庭には、今も車や瓦礫が散乱していました。)

今日の捜索は、南相馬市会議員の中川先生が案内役を買って出てくださいました。


(皆、ヘルメット、長靴、マスクなどで装備を固めました。右から2人目が中川先生です。)




(捜索地域には、津波で押し流されてきた家の屋根や2階部分、瓦礫や車が散乱していました。特に、車の中から遺体が見つかることが多いとのお話でした。)


(瓦礫の中で見つけた時計は3時45分で止まっていました。)

お昼には、南相馬市の原町第一小学校に向かい、被災者の皆様が暮らす体育館で、亀岡先生の事務所の皆様が用意して下さったおにぎりを頂きました。

南相馬市の大半の地域は福島第一原子力発電所から20km以上30km以下の屋内退避地域にあたり、多くの皆様が自宅で避難されています。

たまたま、今日は地震以来初めて、自宅避難の皆様を対象とした支援物資の支給がこの小学校で行われることとなり、受付での整理券くばりやパンの配布に人出が足りないということで、急遽我々がお手伝いをすることとなりました。


(一人当たり5袋のパンを配りました。家族の多い方では9人分のパンを受け取る方もいました。)


(ちょうど安倍晋三元総理も激励に駆けつけ、被災者お一人お一人の声を聴き、握手をされていました。)


(午後は、より海に近い地区を捜索しました。ぬかるんでいるところも多く、捜索の困難さを感じました。)


(土手の向こうに海があり、この土手を大きく超えて津波が家を破壊しました。津波の大きさを実感しました。)


(今日の捜索活動の後、一部のメンバーは帰り、残ったメンバーで亀岡事務所に伺っておいしいカレーを頂きました。事務所の女性の皆様とともに、食後に記念撮影しました。)