昼過ぎに党本部に集合し、靴、靴下、下着、水などを中心とする支援物資をトラックに積み込む作業を行い、我々はバスで福島に向かいました。
本日の参加者は、亀岡偉民、松本文明、萩生田光一、木原誠二、山際大志郎、牧原秀樹、秋元司、大西英男、私の9名です。
(党本部での出発式にて。参加メンバーと見送りの皆様とともに記念撮影。)
東北自動車道は、那須高原を過ぎたころから、路面の歪みで揺れが大きくなります。
最初の避難所である新地町の小学校に到着したのは、夜8時過ぎでした。
(雪の中、皆でリレーで支援物資を下ろしました。)
支援物資をおろし、その後、被災者の皆さんがいらっしゃる体育館に伺いました。
現在約350人の方がいらっしゃいますが、皆さん、家を失った方々だそうです。
お会いした女性の方からは、「町内の3カ所の避難所に4地域の皆さんがバラバラになっており、できれば地区ごとにまとまった方がよいのですが」というご意見がありました。
また、新地町の漁師の皆さんは津波から船を守るために、海に向かい、ほとんどの舟が助かったそうです。多くの津波を経験したことが、活かされているのですね。
新地町は、これまでにも度々津波の被害にみまわれてきたため、避難も迅速で、町民約8000人の内、亡くなったのは40名とのことです。
(皆さん、私たちを温かく迎えてくださいました。)
次に伺ったのは、相馬市の避難所ふれあい福祉センターはまなす館です。482人の方が避難されているそうです。
ここでも支援物資を下ろしたあと、避難されている皆様とお会いしました。
小学生の子供さんに話を聞いたところ、終業式、卒業式、入学式、始業式は全て中止、いつ学校が再開するかは分からないそうです。
(子どもたちは元気そうでしたが、学校がどうなるのかわからないのは困りますね。)
次に相馬市役所をお訪ねし、市長からお話を伺いました。
3/11に地震があった時に、すぐ対策会議を開き、それを受けて消防団員の皆さんが中心になって避難を呼び掛けたことにより、市民の85%が避難できたそうです。しかし、そのため、すでに7人の消防団の方が行方不明となり、そのうち5人が遺体で見つかったそうです。残る2人は団長と副団長で、海の中に沈んでいる消防車のなかにいると推測されていますが、引き上げられないそうです。
物資は、県庁からはなかなか届かず、市長仲間に頼んで送ってもらい、しのいできたそうです。
(市長は、「放射線影響などが悪化しない限り、地域にとどまって再建を目指す」と話されていました。)
その後、23時に亀岡偉民事務局におじゃまし、本日炊き出しで作ったおいしいカレーライスをご馳走になり、0時過ぎに宿に到着しました。
明日は、南相馬市で、捜索活動を行う予定です。
2011年3月 のアーカイブ
奪還の会で福島県の被災地で支援活動(1日目)
2011年3月25日 金曜日上伊那家庭婦人バレーボール連盟総会に出席、奪還の会で福島被災地の支援が決定
2011年3月24日 木曜日
本日(3/24)は、伊那市で開催された「平成22年度上伊那家庭婦人バレーボール連盟総会」に出席しました。
本日の総会で、これまでの大野会長から五味信会長への交代が決まるとともに、名誉会長も、私の母から家内にバトンタッチすることとなりました。
母は、上伊那家庭婦人バレーボール連盟の発足以来、30年余り名誉会長を務めてきましたが、本日でその任を降りることになり、今日は、連盟から感謝状を頂きました。
(私は、「大震災の厳しい時だからこそ、皆様の元気で、家庭を、そして地域を益々元気にして頂きたいと思います。」とご挨拶をさせて頂きました。)
本日、奪還の会の世話人である亀岡よしたみ先生の事務所から、先日打ち合わせた震災被災者支援の準備が整ったとの連絡がありました。
明日(3/25)から月曜日(3/28)まで、福島県南相馬市で支援活動をしてまいります。
通信環境が許せば、随時活動をご報告しますが、3/29までブログの更新ができないかもしれません。ご了承ください。
保科正之に学ぶ危機対応、駒ヶ根市土地区画整理事業竣工式に出席
2011年3月23日 水曜日
本日(3/23)の日本経済新聞の経済教室欄に、東京大学教授の山内昌之先生が、「官僚機構、再編し活用せよ 明暦の大火に学べ 総合力と全体的判断力を」と題した文章で保科正之公のことが書かれています。
保科正之公は、徳川二代目将軍秀忠の子ですが、7歳のときに高遠藩保科家の養子となり、26歳に会津に転封となるまで19年間、高遠で人格をはぐくみました。41歳で4代将軍家綱の後見役となり、「玉川上水の開削」「社倉の創設」「末期養子の禁の緩和」「殉死の禁止」「大名証人制度の廃止」など、数多くの善政を行いました。
以下に、経済教室の内容の一部を要約します。
「関東大震災、東京大空襲を除くと、明暦の大火(1657年)が人史上最大の災害。焼死者は10万人以上、被災者からは凍死者も相次いだ。これを収集したのが4代目将軍徳川家綱を補佐した保科正之(会津藩主)。」
「江戸城本丸焼失後に将軍を上野に移す案があったが、最高権力者がみだりに動いては人心を惑わすと、本丸跡に陣屋を建てて司令塔の所在をはっきりさせた。」
「扶持米を収納している米蔵が類焼しそうになると、米を勝手に持ち出してよいと命じ、これが食糧支援となり、またボランティアによる消火活動を促すこととなった。」
「寒さに震える人々に1日当たり1000俵相当の粥を提供し、犠牲者の拡大を防ぐとともに、家を失った町方への救助金として合計16万両(間口一間につき3両1分)を支出した。」
「正之は、財政不安を案じる同僚に、『こうした時にこそ官の貯蓄は武士や庶民を安心するために与えるものなのだ。出費できる力が国にあるのは大いに喜ぶべきだ』と語った。」
そのほかにも、山内先生は関東大震災のわずか5日後に内務大臣の後藤新平が「帝都復興の議」を提案し、強烈なリーダーシップで東京の再建を進めたことなどを紹介しています。今こそ、歴史的ビジョンを示し、復興機関を創設するなど、政治が本当の意味での力を発揮すべき時であると感じます。
また、伊那市では、保科正之の人生をテレビドラマ化する運動を進めています。日本が大きな危機に直面している今、是非実現たいものです。
午後には、駒ヶ根市都市計画事業「南田市場土地改良区画整理事業」竣工式に出席しました。
昭和57年の都市計画決定から約30年、平成13年の工事着工起工式から10年の歳月をかけて、40.8ヘクタールの面積の土地区画整理が完成しました。
推進委員長の竹内滋一さんをはじめとする341人の地権者の皆様、中原正純前市長、杉本幸治市長をはじめとする関係者の皆様のご努力に心から敬意を表したいと思います。
(大震災の復興を支えるためにも、この事業の完成を機に、駒ヶ根市がさらに発展することを期待したいと思います。)
(施行後には、伊南バイパスを中心に、町が大きく変わっているのがわかります。)